靈氣療法家に戻ってみようと思った話

靈氣療法家でなくなった日のことは、いまでもよく覚えている。

2011年3月11日、場所は千葉県市川市の出張先。

わたしは被災してポンコツ化し、帰宅難民となり駅前のネットカフェのビリヤード台で一夜を明かした。

命より大切と思ってきた子どもたちの元へは戻ることさえできず、あの未曽有の災害に未成年の子ども二人を

神奈川の自宅へ残し、仕事先の人と流されるまま朝が来るのを待つしかなかった。

防災に携わっている今なら、あのときの自分に幾らもダメを出せる。

同行者の口車に乗ったこと、もっと慌てて戻る道を探すべきだったこと、いろいろなことがある。

何より一番悔やまれてならないのは、守りたくもないものを守らされた実感があること。

「足が痛い、歩けない」と言い出した同行者を、わたしは見捨てられなかった。

でも、防災的視点でいうなら、見捨ててでもわたしはあの日、歩いて神奈川を目指すべきだった。

当時の様子なら、横浜あたりまで歩いていけば、きっと動いている電車はあったろう。

同じように帰宅難民になるとしても、もっと違ったやり方があっただろう。

そのことが、のちに二年半もの間人生を停滞させてしまうのならば、あのとき「鬼」と言われてでも

生き抜く道を選んだ方が正解だったのだと思うのだ。

 

人間は心に嘘をつくと正しい道が選べなくなる。

自分の甘さから目を背けたわたしはその後、療法家を辞める。

信じていたことが根底から崩壊し、現場に出るのが怖くなったのだ。

何より、人間が信じられなくなった。

でも、今となればきっと、あのときの客先の人たちの対応が生存に関しては正しいものだと

思っている。

自分のいのちは自分で守るべきだし、誰に守ってもらうものでもない。

何より、守ろうとする気負いがない命なら、いずれどこかできっと誰かに奪われていく。

命の価値を見誤ったわたしはその後「戦闘型霊媒師」になった。

そんなわたしのところには「代わりに戦ってくれるんですよね?」という輩がやってきた。

生きている人間が一番浅ましい、そのことを知り尽くしたころ、ふとこんな話が入ってくる。

 

靈氣って、自殺者を出すんでしょ?

 

某俳優の死以降、そんなうわさが出ていることさえ、知らずにいたわたしは、すっ飛んだ。

なにそれ、いったいなんだっていうの?

 

もう、いい加減にしてよ。

 

社会学の領域では、社会は30年、文化は80年という時間軸が存在しているらしい。

臼井靈氣はもうすぐ生誕100年、ならば立派に文化だろう。

現在世界で何百万人が実践している靈氣は日本発のものではない、形を変えられた

「海外に渡った」靈氣。

そして、源流であるはずの靈氣が「海外に渡らなかった靈氣」として、扱われている。

そのことに、すごく納得がいかなかった。

 

この国は150年前、明治維新を起こした。

その際、多くの血が流れ、多くの人が人生を変えられた。

そうまでしてきたのは、この国の未来を切に信じ祈り願ったからに違いない。

そうまでして未来を信じた先人に対し、わたしたちができることはなんだろう。

 

わたしができることは、なんだろう。

 

わたしができることは、わたしが知る臼井靈氣の真実を語ること。

そして、それを伝承していくこと。

 

お前ごときが、と誰かに言われても。

お前ごときがやらなくて、潰えるよりはずっとマシ、と思ったりする。

 

わたしは日本人であることを誇りに思って死んでいきたい。

そして、その日本に100年伝わる伝統的氣療法があったことをなかったことには

したくない。

この町で暮らしたら、いつかそんな真実に出会えるんじゃないか。

そう思って、北のエリアに暮らして三年、そろそろ真剣に声を上げて

みようじゃないかと思った夏。

 

まずは、靈氣療法家に戻るところから始めてみようと思います。

 

 

靈氣療術、受け付け再開いたしました。